長崎そよのクライシック描写について
基本的に「アニメでこう言われたからこう」というのが納得できない性格で、具体的にはラブライブスーパースター二期で「今まで全くそんな事を描写されてこなかったのに、米女メイがピアノを弾けるって言ったからピアノが弾けることになった」のは明確に説得力がないので面白くないし、お話においてそんな人狼の役職みたいなことがまかり通ってはいけないと思います。
逆に、それまでにそれらしく描写されてきたうえでのものであれば「過去にこういうことあったからこのキャラはそういう事思うよね、言うよね」と納得ができて面白いと感じるわけですが、長崎そよに関しては結構後者だと思っていて、ずっとクライシック再結成に向けて動いているっぽい描写はされてきたから「長崎そよがクライシックに執着している」ということ自体は唐突感なく受け入れられてはいますし、「楽しかったから」でも、執着してる理由だけで見たら問題ないと思っています。
ただ、やっぱりずっと引っかかっているのはそこからMygoで良くなった理由がよくわからないということなので、比較の為にもクライシックとしての描写が欲しかったと思っています。
続き
長崎そよが燈の歌詞に対して共感したのについては、10話が納得できる人であればかなりスムーズに受け入れられるんだと思いますが、僕としては後出しだし唐突だしよく分かんないな、という印象でした。
居場所に関しても、原Mygo(7話のライブ前のMygo)でも燈は「一生バンドやろう」って言ってるわけだし、それが居場所になり得るんじゃないの?と思います。もしならないんだとしたらやっぱりそれはクライシックに対して何か特別な感情が、それこそただ「楽しい」を超えたものがあったんじゃないかと思うので、それをもっと本編で表現してほしかったなあと思います。
これは余談ですが、長崎そよが周りに流されやすいともあんまり思っていなくて、むしろクライシックの再結成を目論んで動いていたのは、目標に向かって能動的に行動できるキャラなんだと思います。周りに合わせているのも長崎そよが周りの人間の機微を感じとれてしまって、その期待を裏切ったときに出る負の感情も感じとれてしまうからこそ、そうさせないように主体的に行動している結果であって、流されているとか自分の判断基準がない、とはまた別の性質なんじゃないかと思います。
長崎そよについて20分考えた話
昨日の夜一人で喋りながら20分くらい長崎そよについて考えたんですが、結論としては「クライシック時代の長崎そよと比較できていない」のが一番問題点なんだろうなと思いました。
クライシックの描写はところどころしかなくて、その中で長崎そよはどういう立ち振る舞いをして、どこにクライシックとしての楽しさを見出したのかが不明なため、Mygoの長崎そよとの比較が十分に行えずモヤモヤしているんだろうと思います。
よく「長崎そよが素の自分を出したうえで受け入れてくれたから」みたいな意見をよく見るんですが、それも「じゃあクライシック時代に長崎そよは素の自分を出せてたの?千早愛音にキツめに接する長崎そよみたいなことをクライシックのメンバーにもできてたの?」っていうところを比較しないと十分な理由とは言えないと思います。
長崎そよにとってクライシックが楽しかったことは事実だと思うし、だからこそ執着してたとは思うんですが、クライシックがどうして楽しかったのか、どうしてそれほどまでに執着するものだったのかという説明は不十分だと思うし、だからこそ振り切れた理由はやっぱりわかりません。
こんにちは、なつみかんです。
Shadowverseやってます。
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